宗教法人 慈光寺

 

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伝説

仁王奇行

仁王

 

赤い顔をした仁王さんは、いつも元気でした。
しかし仁王さんはうそが大嫌いでした。そして誰がうそつきであるかちゃんと知っていました。
この仁王さんのいる仁王門の近くに一軒の農家がありました。そこのおかみさんは口癖のように子どもに向かって
「泣くと仁王さんにくれてしまうよ」
といいました。

ある日の夕方も、縁先で泣きじゃくっている子どもに母はいつものように言いました。しかし子どもはどうしても泣き止みません。うるさいとおもった母は子どもをほおって置いてお勝手仕事をしていました。

いつか夕やみがせまって、あたりがぽっと暮れてきました。母は思い出したように聞き耳を立てましたが、子どもの泣き声が聞こえないので、表に飛んできましたが、子どもの姿は見当たりませんでした。母は狂ったようになってさがしました。

しかし子どもはいませんでした。

このとき、母の胸を強くうったのは仁王さんのことでした。
「もしかしたら・・・」
そう思って母は髪を振り乱して、血走った目をみはって、慈光坂を息も切れそうに走っていきました。

仁王門のところに来て、薄暗がりの中に立っている仁王さんを見たときは母は
「あっ」
といってしまいました。
そのはずです。仁王さんの口元から見覚えのある子どもの付紐が下がっていました。

母は自分の言ったことを後悔しながらも、むっと怒って仁王山を突き出して谷へよっこらさと落としました。
仁王さんも仕方が無いと苦笑いしながら
「オホホ、オホホ」
と転げ落ちていきました。今もその地を“オホホ沢”と呼んでいます。
「オホホ、オホホ」と笑いながら仁王さんは
「ビリビリ」とオナラをしたので、後の人がそこを“ビリ沢”といいます。
こうして仁王さんはどんどん転がって都幾川へ流れ込みました。仁王さんはざぶんと水に入ったとき、夢からさめた時のように大あくびをして、流れのままにごろんごろん川下へ行きました。

川下の人は川の中の大入道に驚きましたが、仁王さんでしたからひろいあげてもとの所にまつりました。

 

丹仁奇縁

慈光開山といわれます広恵菩薩は不思議な感じによって、下野の国から丹仁というお弟子を迎えました。丹仁は6歳のとき父を失いました。しかし人並み優れていた丹仁には、幼心にも父の霊を慰めようという一途な気持ちがありました。

そしてとうとう坊さんになる決心をして広恵菩薩のお弟子になりました。
国には唯一人母を残して寂しいながらも異境の地に仏の道を怠りませんでした。けれども丹仁は鐘楼の下に立って秋の入り相の鐘の音のかすかに揺れるのを聞くとき、幼い胸に母を思い浮かべずにはいられませんでした。
お師匠さんはこうした彼の後姿を見ては、さすがに哀れを思うのでしたが、全てを仏にお仕えする身であってみれば、ただ自然の人情に任せて丹仁を慰めることはできなかったのです。

お師匠さんはある日丹仁をひざ元に呼び寄せて静かに物語りました。
「丹仁、お前は出家したのだ。決して心を迷わせるようなことがあってはならぬ。」
といい含めました。感じやすい丹仁は自分の寂しい心をお師匠さんに悟られたことを後悔しました。そしてその後は努めてそうした心から逃れようとしました。

国に残された丹仁の母は寂しい日々を送っていましたが、かわいいわが子に会いたいということは忘れられませんでした。そしてその思いは募るばかりでした。
母は思い定めて、はるばる武蔵の慈光の地を訪ねようと旅立ちました。
母は旅にやつれながらも、なおつえにすがりながら、小川宿の古寺まで足を運びました。
山々は険しく、谷は限りなく連なっております。その上杉の巨木が茂りあっていますのであせりながらも思うようには進むことはできませんでした。
しかし子を思う親心から木々に取りすがり一足また一足と寺に近づこうとしました。
しかしそのとき不思議にも、今まで晴れ渡って雲ひとつ無かった空が急に曇って、眼をさすような稲妻がひらめくとともに、天地がひっくり返るかと思われるような雷が響きわたりました。
あまりの恐ろしさに母は我を忘れてふもとまで走りました。しかし母がふもとに着いたときは忘れたように晴れていました。その日はふもとの古寺に仮寝の夢を結びました。旅の疲れを少しは癒した母は、翌朝また山に入りました。けれども寺に近づこうとしたとき、また昨日のような山鳴りに出会いました。母は不思議なものに取り付かれたように立ち止まりました。
けれども母はまた勇気を出して登ろうとしましたが前より激しい雷が鳴るので足は少しも進みませんでした。その上血の雨が降り注ぎますので、あたりはまっ赤にそめられてしまいました。母はただ我を忘れて泣き狂うばかりでした。ふもとに逃げ戻った母は、失神したかのように岩の上に打ち伏してしまいました。母は夢うつつに思いました。
「ああなんと不思議なことであろう。私がこの難儀にあったのは必ず菩薩様に差し上げた丹仁をあさはかにも我が子であると思ったためであろう。」
と母は後悔しながら立ち上がりました。そして
「観音様、どうぞ一目丹仁に会わせてくださいまし」
となみだながらにお願いすると不思議なことに慈光山から紫の雲が静かに下りてきまして、さっと金色の光が差しました。
「尼さんになりなさい。丹仁に会わせてあげましょう。けれども丹仁に会ったとき、口をきいてはなりません。」
と不思議な声が聞こえました。母は
「あれ・・・」
といってその声のほうを見つめましたが、声はどこかへ消えてなくなりました。
母は観音様のお慈悲であると、伏し拝みながら、黒髪を根本からぷっつりと切り捨てて山を登りました。
丹花の井のところまで来ると雨は全く晴れてしまいました。
そのとき、一人のお小僧が花手桶を持って降りて来ました。それはまがいも無く丹仁でした。
「やれなつかしや丹仁」
と呼びかけようとしましたが、母は口を開くことができませんでした。丹仁も母の姿を見て夢ではないかと疑いましたが、まさしく母でありました。
懐かしさのあまり
「かあさま」
と問いかけようとしましたが、お師匠様の戒めが自ら思い出されて、ただうるんだ眼で母を見守るのみでした。母子はへだてあった幾年かの懐かしい物語もせず無言のまま寂しく別れてしまいました。
母は泣く泣く観音様に参詣して国をさして帰ろうとしましたが、山中で発病して、はかなくこの世を去ってしまいました。
それを知ったお師匠様は丹仁を連れて母の死所へ赴いたのです。冷たい母の姿を見てはさすがに丹仁の心も狂わんばかりに悲しみに満たされました。けれどもお師匠様の言われるままに母をその地に葬りました。
来る日も来る日も、丹仁は野花を母のみ墓に手向けることを忘れませんでした。

今もここを比丘尼塚といって、寂しく風雨にさらされています。

 

夜荒しの名馬

夜荒しの名馬

 

左甚五郎の持つノミは勢いよく彫り進み、二日三日と過ぎていくうちに、太い丸木は馬の頭になり足になり、尾になって行きました。甚五郎は目を入れるときふと荒々しい気持ちになりました。

甚五郎は
「この馬は、気が荒いようだ」
とつぶやきました。

この馬は夜になるとそっと抜け出して付近の畑の作物を荒らしまわりました。
あるときは二里も三里も遠方まで駆けていくこともありました。百姓たちは不思議に思いましたが、まさか、この名馬の仕業とは思いませんでした。しかし幾日かすると誰言うとなく、あの名馬が夜になると姿をあらわすといいました。

そこで百姓たちは相談して、夜になるのを待って二・三人ずつが分かれて、思い思いの方面に行って隠れていました。名馬はそれとは知らずに、その夜ものそりのそりとやってきました。
「やっ、確かにあの馬だ。しかし不思議なことだ・・・」百姓たちはあっけにとられました。
こうしたことがいくたびも続きましたので、百姓たちもおこって、その尾を切ったり、鉄鎖で口元をしっかり縛ったりして、観音堂の上に納めてしまいました。